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そういう時期だから

まことしやかに囁いてよアレを

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写真よさようなら、来るべき言葉のために 

◯行き止まり
私の住居は京都市の右上のほうにあり、京都は道が単純なので、
帰り道は ↑ → のコマンドを繰り返し入力することで大体たどり着くことができる。

ゆえに、自転車で毎回ちがう道を通って帰るのだが、
きょうは住宅地で行き止まりに行き当たったのでドキドキした。

行き止まりに行き当たると、大変あやしい気持ちになるのは私だけだろうか・・・?

なにかこう、来てはいけない知らない世界に来てしまったような気持ちになる。
些か不安になって大きめの道に出ると、出町柳よりも北西に来ていた。
 \賀茂川     高野川/
   \       /  ★家
  ●  \    /  
  ↑   出町柳
       |
       |鴨川
出町柳でY字に分かれた鴨川は「賀茂川」「高野川」と名前を変え、エリアを3つに分断する。
賀茂川の西エリアには来たことがなかったので、まさしく知らない世界だった。

まだまだ、京都のなかでも自分にとって実体のない、輪郭のあやふやな土地は多い。
おもしろい景色や変な風景はごろごろ転がっている。
住んでいても、旅行者の気持ちを忘れないことが、みずみずしく暮らすコツ哉・・・。


ファイル_000 (10)


「蓼倉橋」がなかなか素敵な橋だった。
渡りながら振り返った時、ニューヨークから見たハドソン川の景色、
その向こうに見えた町の姿を思い出した。

そういえば同じ時間帯、同じように曇りで、相似形の姿だった。
同期・・・synchronize




◯KYOTO GRAPHIE
あの赤いのぼりを街中で見ると、今年もこの季節が来た!と嬉しくなる。

01 虎屋 京都ギャラリー:江戸時代の日本
04 ギャラリー素形:ジャダ・リパ
09 京都文化博物館別館2階:ルネ・グローブリ
10 誉田屋源兵衛 竹院の間:ロバート・メイプルソープ
06 元・新風館:吉田亮人

今日は、無料のところばかりを廻った。

写真の長所は、「すべて写る」ことであり、
写真の短所は、「すべて写ってしまう」ことなんじゃないかと、ぼんやり思った。

写すものを選ぶ。それによって、その写真家の性質が決定される。
膨大な情報のうちから、どの部分を切り取ってくるのか。どの部分を削り落とすのか。
単純なことのようで、これがどちゃくそ難しい。
結局、それがシャッタースピード、絞り、構図、ピント、タイミング、その全てに関わってくる。


また、「撮影者が写ってしまう」こともある。
物理的に写り込むということではなく、心理的な現象として。

良い悪いは別にして、
「写真に、撮影者の存在が色濃く感じられるどうか」という問題は、
写真を鑑賞する上で一つの焦点として論じられるかと思う。


10:温度60℃、湿度50%
ロバート・メイプルソープの写真には、ずっしりとした自己主張があった。
意図的なフレームワークに、撮影者の「俺を見てくれ!」という視線をびんびん感じて、
なんというか、腹に重たく溜まる感じがあった。

06:温度36℃、湿度90%
展示室から出て、思わず友人に「びしょびしょになったね・・・」とこぼした。
めちゃくちゃウェット。被写体と撮影者の関係。画面の中に流れる時間、空間。
演出過多・説明過多に感じる部分もあったが、そこは好みの問題かもしれない。
入り口の2枚の写真では思わず涙ぐんでしまった。
「写る」ことの強さと、「写ってしまう」ことの弱さを同時に感じた。

09:温度15℃、湿度20%
06とは対照的で、非常に距離が遠く、客観的、ドライな写真だった。
顔を写さない、というのは大きい。
また、10と同様に肉体の曲線を写しているのだが、まったく質感が違った。
前者が影によってかたちを刻んでいるのに対し、こちらは光によって線を浮かべている感じがあった。


ひとまず簡潔に・・・


撮影者・被写体・鑑賞者、それぞれの距離感。

(高校時代、写真部の顧問の先生が、
「撮って良し、撮られて良し、それ見て良し、の三方良し」を目指せ、
と仰っていたのを今思い出した)



5/1

◯都写美
念願の都写美!

山崎博の「計画と偶然」展をやっていた。
前述の「撮影者が写り込む」状態に関して言うと、極力それを削ぎ落とそうとしているように見えた。
いやまあ撮ってる時点で絶対に写り込んでるんだけど、
姿勢として、ドライであろうとすること、現象を現象として記述することへの情熱。

桜の印象を写すシリーズでの、
「桜を物語から切り離したい」という文言に共感した。



ロベール・ドアノー先輩のドキュメンタリー映画が上映されていたので、喜び勇んで拝見した。
ドアノーさんは私が「好きな作家」として名前を挙げられる数少ない写真家で、
路上スナップもいいし、何より有名人を撮ったポートレートがとっても良い。
「人が好き」だということが、画面からいっぱい伝わってくる。

ドキュメンタリー映画はあまり好きではないのだけど、
先輩の写真がふんだんに使われつつ映像とのバランスも良く、
ひょうきんなBGMも相まって楽しく観られた。

「ファインダーの中に小さな劇場をつくり、そこに登場人物が現れるのを辛抱づよく待つ」。
彼が「イメージの釣り人」と呼ばれたゆえん。
高校時分、スナップ写真ばかり撮ってきた身としては、僭越ながら「まさに」と思った。


あと、
「写真家に必要なのは、好奇心、不服従、忍耐。」という言葉も耳に残った。

好奇心、不服従。しっくり来る。
それさえあれば絶対に大丈夫だ。



ファイル_000 (7)


自我を主張することが芸術、というふうに思っている人は多いと思うが、私はそうではないと思う。
というよりも、芸大で4年かけて、そうではないと思うようになった。


自我は、主張するものではなく
自意識を滅却することによって「自ずと」浮かび上がらせるものなのかもしれない。


「自分を表現する」という言葉がうかつに使われる場面があるが、それは間違いで、
私たちには「自分の認識しているものを表現する」ことしかできない。

「認識しているもの」を「表現」しようとしたときに、
「自分」という存在は時として邪魔な、障害になる。
「思い込み」が、純粋な認識を阻害するのと同じ理由で。



純粋な認識、不純な認識。

絶対的な自我、相対的な自意識。



何が良い、悪いというのではない。
何を良しとするかは、自分で決めることが出来る。

虎にならぬよう。




さて・・・ぶつぶつこねてる暇があったら絵を描かなければ・・・・・・!
お仕事お仕事っ・・・。いやー、ほんと、まじでまじで・・・
書いてる暇があったら描かなきゃ、まじでまじで(手汗)




トリッパー 投稿者 y6nojo
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