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そういう時期だから

まことしやかに囁いてよアレを

UDATSU doesn't rise. 

バスに乗っていて、目的地に着いてほしくないと思うことがよくあります。
みなさまはどうですか?(突然のコール&レスポンス)


小学生の頃の家族旅行。
父が車を運転している。母は助手席で、弟達は後ろでシート倒して寝ていて、
わたしは、助手席の肩の部分にあごを乗っけてにこにこしている。


結局のところ、どこかに行きたいというのは口実で、
そこに向かう過程が一番うれしくてたのしくて、大好きなのだった。



だって着いてしまったら、終わってしまうじゃないかあ。うぺぺぴぽぽ。



きっとこの感覚はそう珍しいものでもないというか、結構多くの人が抱いている感覚なのだと思うのだけれど。
普遍にこそ真理あり。


ものごとには終わりがあるからこそ尊いわけですが、
そこでゴールというものは、「便宜上」設定されるものであります。
ビジネスとかでいうと、ビジョンとか目標っていう言い方もできるね。
それはベクトルを決定するための手段であって、目的ではない。

いや、まあ結局のところ、何を目的とするんかって話なんやけどもね。
何を手段として、何を目的とするか、というところがクリアでないと、視界が濁ってろくでもない。
得てして手段に溺れがちなわたしたち。ぽこぽこぽこ。


ひとは便宜上死ぬけれど、死ぬために生きてるわけじゃない。そら、せやな。
じゃあ、死ぬことを恐れてる暇があったら、絶対いまを慈しんだほうがいいじゃんって、そういう単純な話ね。はい陳腐


でも便宜上必要なんだよ、ゴールは。

はあ・・・人間かわいい・・・。泣きそう・・・・。(※泣かない)




時間には乳白色の液体のようなイメージがあって、
限りなく透明感のある不透明。

流動的で、きのうまでそこにあったものが、まばたきした隙にもうない。

きのうまで、あんなに「確かっぽかった」ものが、きょうにはもう何も残っていない。



だからね私達は、絶対に手に入らないものを求め続けることしかできないの。

ああ、なんだかせつない。みぞおちがきゅっと苦しくなります。ね。



などと、無闇にポエティック。無駄にセンチメンタル。



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さて、夜も更けてきたことですし、元も子もないことでも言いましょうか。
基本的に私は元も子もないことしか言わないんですけども・・・


「分かる」ということに、一体どれほどの価値があるんだろうか。と。

ここ数日はそんなことばかりもじゃもじゃと考えております。


例えば小2男子が親に、宿題やんなさいよ、と言われる。
男子は「分かってるよ。」と答える。

それって、分かっているかもしれないけれど、解っていないのではないかしら?



ここで、「分かる」と「解る」を区別して考えることにします。

「分かる」というのは、ことばにすること。ことばによって枠付けること。
自分の中で言葉に出来た(納得のいく説明ができた)時、人はそれを「分かった」と言う。
そして人は日々色んな事を、いっしょうけんめい、分かろうと、がんばっています。

「解る」というのは、体現できること。
ことばを超えた領域で、掴む、というか、掬う、というか。


「分かる」=understand
「解る」=make sense

というとわかりやすいかもしれない。



「分かる」ことが、いっしょうけんめい「分化」しようとする試みだとすると、
「解る」はむしろ自然に、「未分化」な領域で起こっていることで。

だから学びの中には、いちど「便宜上」分けたものを、解体するというステージがあるべきなのじゃないかなあ。

コップに入れた液体。ひっくり返すか、浴びせるか




ああ、そうだ、そうだ、そういえばそういえば、小山田先生も言っていた。
「ことばは、今日の自分を納得させるためのものでしかない。」

流動的なものを、コップに入れて、納得できて、ああ満足、そう思った瞬間に、中身はもうすでに腐り始めている。

「満ち足りた」瞬間、すでに「足りない」がはじまっている。(by高3の辻村知夏)




流動し続ける事こそが、生の尊さなのだ、きっと。
原子の中で電子が動き続けてるようなものかな。しらんけど。

引き合って、摩擦し続ける、エネルギー
対立概念、きっと元は同じものだから、必然的に引き合う。ぐりぐりぐりぐり。



流動的だからこそ、「いま」が何よりも重要で、
「いま」は、過去を想起させ、未来を誘発する。

刹那は、永遠を口に含んでいる。



「分かろうとする」ことはすごく尊くて、重要な事です。
しかし「分かる」ことそれ自体は、便宜上のゴールでしかない。




ああ、こうやって書いているのだって、自分が納得するために、ことばにして、「解ったような気になって」いるだけなのです。



だからもう最近はもう、ことばにすることがもはやもどかしい。
もう余計なこと喋りたくないです。いや、それ言ったら全部余計なことなんですけども。

最近は主に、ねんどをこねたり丸太を彫ったりミュージカルをつくったりしています。
ふふふ。楽しい。ふふふふ。



人間がどんなに醜くても、世界は勝手に美しい。えへへへ。
愛してるぜ。あばよ!
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