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そういう時期だから

まことしやかに囁いてよアレを

しづこころなく花の散るらむ (アーメン) 


神学の研究してるあんちゃんに聞いたところによると、
「アーメン」って、「せやな」みたいな意味らしいです。


ファイル_001


今年のクリスマスは、なんだか、とうめい感のある時間でした。
(「透明感」じゃなくて「とうめい感」なところがミソです。)

天気が良いとそれだけで心が強くなりますね。(アーメン)







24日は日本聖公会・聖アグネス教会の深夜聖餐会に参加させていただき、
キリストっちの誕生日をお祝いしてきました。おめ。
聖歌のメロディって、一度聞いたらすんごい耳にこびりつくなぁ、なぜなのだろう。
音階の方程式的なものがあるのだろうか。ん~気になる。

歌ったり、ひざまずいたり、イェスの血肉を食べてる人たちを指をくわえて見たりしてました。
洗礼を受けてない人がイエスの血肉をいただくと、呪われるらしいです。ひええ。
こないだ釜ヶ崎の礼拝で食べてしもたけど・・・

そのあと、前述の神学あんちゃんことハセさん宅で、
こっそりパンとぶどう酒をいただきました。



聖餐会を経ての所感。

えーと、こういう事書いても良いのかわかんないんですけど
(わたしに色々なことを教えてくださる宗教者の方々は、
いろいろ守るものがあるゆえに慎重にならざるを得ないみたいです。
わたしは守るものがなにもないのでうかつに書きます)

イェスさんってあくまで媒体っていうか、
神にアクセスする為のメディアなのだなぁ、という感想を持ちました。

不可視なものを見えるようにするための記号。
または、難解なコンピュータ言語を対人間用に翻訳するためのOS(オペレーションシステム)のようなもの。
ブッダがMacでキリストはWindowsみたいな?いや知らんけど。

何をもってメディアとするか、ってとこに関しては、
・人が社会を構成するために必要な共通言語
・発信者と受信者がいる
っていうので必要十分?
てゆかメディアっていうことばの射程範囲広すぎ。

これについてはもう少しじっくり考えてみます。
こういう視点で研究してる人や本、機関があったら教えていただけると幸いです。





イェスっちの誕生秘話としては、
マリアたんのお腹の中にいきなりイェスっちが宿って、
(いわゆる処女受胎。聖霊さんのしわざ)
婚約者のヨセフ氏は「おいマジかよ」ってなってすっごい悩んでたんだけど
そしたら主の天使が夢に出てきて、「心配しなくておk。そいつイェスだから。」って言われて
「よっしゃ!じゃあ産も!」ってなってこっそり産んだ、みたいな話らしく
(語弊しかない)

じゃあ結局のところ信仰の矛先ってどこなの?
イェスさまなの?マリアさまなの?その向こうにいる神さまなの?
てか、主って誰やねん。聖霊ってなんやねん。
とハセさんに聞いた所、「三位一体」というワードが返ってきました。聞いた事あるやつだ。

要は、【主=神さま(父)=イェス(子)=聖霊】 
これらがすべてイコールの未分化な存在ということらしい。
氷=水=水蒸気 みたいなものかな。
いろんな解釈があって、それによって流派も分かれているみたい。
なかなか咀嚼しづらい概念だし、飲み込みづらいことなのだろう。

こういうのは、信仰をもってして、全毛穴から吸収していくものなのかもしれない。
理屈を踏まえて、理屈を超えていく感じ?
儀式を通じて自分の肉体と一体化させていく感じだろうか。


(↑推測でしか喋れないので、語尾が全部ほやっとしている所がおもしろポイント)


ファイル_000 (3)


ハセさんの信仰の形はとても透明感があって良いなぁと思った。
空気のように存在する信仰。客観性を保ちながら、ともに生きる感じ。

宗教は、
説明のつかないことや、釈然としないこと、納得できないことたちを受け止めるための、
セーフティーネットのようなもの、と仰っていた。

「社会」からこぼれ落ちたものを受け止める網。


ファイル_000 (2)


そう思うと、宗教は、社会でありながら、社会でないのかもしれない。

わたしは、「あらゆるコミュニティーは宗教である」というのを
ひとつのスローガンにしていたけれど、
もう少しことばを解剖してじっくり考える必要があるなぁ。

んー嬉しい。
じっくり考える材料があるのは、うれしいことだ・・・
ハッピー卍卍卍





そのままハセさん宅に泊めていただき、ふかふかの布団でぐっすり眠った。
核シェルターみたいなお家で居心地がよかった。
のどごしさわやか、スーパードライな優しさを感じました。ありがとうございます。





25日の朝は、てくてく歩きながらもぞもぞ考えていた。

もっともらしいことは、いくらでも言える。
納得させる理屈はどうにでも作れる。
どうやらこの世には、にせものが蔓延している。

有象無象の中で、
どっからどこまでを自分の納得ラインとして定めるか、によって、その人の輪郭が決まる。
だいじなことは、だれかに自分の輪郭を決められないことだ。選ばされないことだ。

相手から受信したものを、嘘とするか、本当とするかは、自分が決めること。

逆に、自分が発信したものを、嘘とするか、本当とするかは、相手が決めること。

なのかも。しれない。しらんけど。

嘘なのか本当なのかっていうのは実は大した問題じゃなくて、
「求められるものに支配されない」こと、
そんでもって、「求めない」こと、かなぁ。


ふふふーん。ふーん。(あっこれは鼻歌ですね。特に関係ないです)





ところで『ジーザス・クライスト=スーパースター』はミュージカルなんですけど
まずタイトルがかっこいいし、曲もかっこいいし、結構人間臭くて笑えるのでおすすめです。


えっと、いまどうやら月に一度の感度ビンビンWeekなので、
いくらでも書きたいことが湧いてくる状態です。
まだまだ書けそうなんですが尿意が募ってきたので終わります。アーメン。

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ごまかしません、克つまでは 

実家の平たいふとんで目を覚ましたしゅんかん、すごいことに気がついてしまった。 かもしれない。
薄暗い部屋、もっ、とした空気に体は汗ばんで、
向こうのほうでわんわん蝉が鳴いていて、扇風機の風がそれらをぼーっとかきまぜている。

日々の沈殿の、結晶化された気づきというのは、ほんとうに何の事はない、ふっと気を緩めた瞬間に降って湧いてくるからびびる。
これは、けっこう、大切な、核心にちかいことだと思うので、丁寧にメモっておこうと思う。



すべてのことばは、自分のためにあるのではない。



私はこれまで、ことばを、自分のために使っていた。

だから、いつでもどこか意地汚く、矮小で、ごまかしに満ちていたのだ。


だから、あんなに優しい人達を、わたしは簡単に裏切ってしまえたのだ。


申し訳ない。ほんとうに思ってる?
もうしません。嘘おっしゃい。
恥ずかしい。・・・それって、自分のために言っているのでは?

自分を守るためだけのことば。
相手に届かせる気のないことば。
思いやりに欠けたことば。

もっともらしいことばを並べて、満足しているだけ。


だから、自分の言葉に責任が持てないのだ。



やさしい人になるために、大学に来たのだ、わたしは。
私の周りには、びっくりするくらいやさしい人が、たくさんいる。

ちゃんとしよう、ちゃんと。少しずつ、ひとつずつ。


きっとこんなことはあたりまえのことで、
普通に生きてる人はわざわざ言葉にするようなことでもないのだろう。
厚顔無恥の知、無知の血、むちむち・・・


ありがたいことばかりだ・・・






母のポテトサラダはおいしかった。
最近ほんとうに適当なものばかり食べていた。
いや、適当にものを食べていた。

ちゃんとしよう、ちゃんと・・・



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どうでもいいけど、「美味しい」と書いて「おいしい」と読ませる神経を疑ってしまう。びみしい。



 
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故意に好意を乞う行為は濃い語彙の囲いに憩う 

フキンシン氏を恐れずに言うならば、
それは地震の後の液状化現象に似ている。
 
堅固に固められたかのように見えるこころは、
ある種のズレによって、揺すぶられて、構成要素の瓦解を起こす。
結合していたものが、ほどけて、沈下して、
じゅわ、と水が染み出してくる。
 

だってそれはもともと水分を含んでいたものだから。
本来ウェットなものを、便宜上乾かして使っているだけのことだ。
現象としての感情。


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じつは読書が苦手だ、ということにわりと最近気づいた。
いや~気づかなかったな~~。びっくりした~。

苦手なことをしようとするとき、どうしてもモチベーションが環境に依存する。


家から歩いて2分のところに、とてもすきな喫茶店があって、
読んでしまわねばならない図書がいくつかあったので、午後の時間をその窓際の席で過ごした。
 
ときどき顔をあげて、窓の外の木や花を見て、
そういえば息するの忘れてたっ!と言わんばかりに思いっきり呼吸する瞬間がとても好きである。
樹に咲く花は好きだなー。なんかしらんけど。
 
 
昼過ぎ、作業着を着たおじさん二人が入ってきた。
持っているお盆の上には、空になったアイスコーヒーのグラスがたくさん載っていて、
彼らはにこにこと礼を述べお金を払っていた。
 
お昼ごはんを食べた後、みんなでコーヒーを飲んで休憩したのかな。
天気が良いから、外での仕事だったら気持ちいいだろうなあ。 とか、
わたしの暮らす家やら道路やら座ってる椅子やら、
すべて、こんな人達によって作られているのかぁ、
とかとか、
いろいろ思うと、その圧倒的豊かさというのかなんというのか、
熱いものがこみ上げてきて私の眉間をじんわり潤した。
 




すこし似たようなことが3月末頃にあったらしく、携帯のメモ帳に残してあった。


地下鉄烏丸線に乗った折、向かいの座席に作業着のおじさんが座っていた。

胸の部分に、厳格なフォントで、
安全衛生管理統括責任者 よしだ
と刺繍してあった。

わたしはもう、
よしださんの顔つきだとか、佇まいだとかから、いろいろ想像してしまって、
安全と衛生を管理することを統括していてなおかつその責任をとっている、仕事ぶり、
そこに集う人々がよしださんに寄せる信頼までも、勝手に想像して、勝手に涙ぐんでいた。



いやー、ほんと。偉いですよ。
人間だけがすごいわけじゃないから、威張っちゃだめだけど、
ほんとに、偉い。
アリや、屋根や、かたつむりや、炊飯器や、牛や、大型トラックが偉いのと同じように。
みんな偉い。

わたしも偉くなろう・・・。







自分の言動を振り返ってみてもわかるが、
相手のことを好ましく思う気持ちというのは、得てして伝えづらいものである。
っていうか、わざわざ誰かを嫌うほど、みんな暇じゃないっしょ?知らんけど。
だから、「この人は自分のこと好ましく思ってないんじゃないかっ?!」という不安はたいていの場合、杞憂なのだ。
とでも思っておいたほうが、生きやすいよね~って・・・
 

言い換えると、「好意」というのは基本的に隠蔽されがちなものであり、
それをわざわざあばこうとするのもかえって野暮なことだったりする。
だから、すこしでもその先っぽがちらり覗いたなら、それは氷山の一角なので、相手の好意を全身に浴びるがいい。
また、相手が好きなものについて語っている時は、その奥深くの膨大な愛情を汲みとって、静かに聞くべきだと思う。

自分の好きだと思う相手には、機会さえあれば惜しみなくそれを伝えよう!ぐらいに思っておいたほうが、
変に緊張しなくてすむのかもしれない。
改まって伝える機会なんてそうそう訪れないので、それくらいに思っておいたほうがいい。
どうせ勝手に滲み出てるものだし。
 

好意は鏡写しのように増幅していくもので、
かと思えば一瞬で見失ったりする。
でも、確かにそこにあるものだと信じるしかない。
「盲信」はもっぱら、目に見えるものに対して向けられるものだけれど、
目に見えないものを、こころを虚しくして信じることのほうが美しいように思う。
 
ああ・・・前向きに人と関わっていきたい・・・。
どうせみんな人見知りだしなあ!
 
この世は、地盤ゆるゆるエンターテイメント~~~~!!!



あら、沈下してる。上澄みじゅわじゅわ。

ペロペロペロペロペロペロ

お、おいしい・・・!!!!!!!!!

ペロペロペロペロペロペロ
 
 
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「『理解する』ということについて、私達がいかに理解していないか」の考察 


わたしたちが人に対して「わからずや!!」と言いたくなる時、
相手はきっと「わかってない」んじゃなくて、「自分とは違う理解の仕方をしている」のだと思います。
 
だから、自分のことをわかってほしいなら、
相手がどういう理解の仕方をする(どんな文脈を持っている)人なのかを把握しないと、
不毛な議論や対話、ならまだしも、喧嘩や戦争が勃発してしまいます。

「ちゃんとお話」できないという事態は
語彙を共有できてない(共通言語を確立できてない)から起こることで、
同じ日本語を使ってるように見えても、それは同じ言語ではありません。
 
っていう話に関する考察です。



きょうは、パソコンで絵を描く時に使う「レイヤー」という考え方をつかって分解していきます。



レイヤーとは、イメージを分解するセロファンのようなものです。

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たとえば一枚の絵を、分解するとこうなります。

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このセロファンは地層のようになっていて、上にある層が優先的に表示されます。
透明度などを操作することで、下の層が透けて見えるようにすることもできたり。
層の上下は自由に入れ替えることができます。
 
しかし、完成した絵を人に見せるとき、
相手に見えるのはすべてのレイヤーを統合した「表層」のみです。

逆にいうと、表層に見えている「イメージ」は無数に分解することができるということです。
 
 

これって、言葉に適応することができるのではないでしょうか・・・?

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わたしたちがオシャベリする際につかうことばはすべて、
レイヤー統合した後のさくらちゃんの絵のようなものです。
その中には、無数のレイヤーが折り重なっています。

一枚の絵を見るとき、「表情がいいね!」とか「線がいいね!」とか、「色がいいね!」とか、「構図がいいね!」とか、
知らず知らずのうちにレイヤーを分解して、選択していたりしませんか?
それと同じで、ひとつの言葉を受け取るときにも、無意識のうちに、レイヤーを選択しているんじゃないかなぁ、と私は考えたのです。

意識は常に、欲望に従って、「見たいものを見る」「聞きたいことを聞く」ようにできています。
自分にとって都合の良い情報を受け取るためです。
これは決して悪いことではなく、むしろ生きるために必要なことです。

  
上の図で、「日本」というイメージをレイヤー分解していますが、
「地域活性化」を課題意識に活動している人は、そのレイヤーに立って発言します。
「教育」界隈で活動している人は、そのレイヤー上で言葉を理解します。
(この場合、レイヤーの上下と優劣は関係ありません)

つまり、受け取ったことばをどのレイヤーにおいて理解するか、によって、
そのひとの生き様、そのひとの使う言語、そのひとの所属する界隈、が決まるのです。


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ここで重要なのが、違うレイヤー同士での議論は成り立たない、ということです。
それは、「見ている景色が違う」からです。
y軸(縦軸)が同じで、同じ日本語、同じ単語を使っているように見えても、
選択しているレイヤーが微妙に違うのです。

同じ分野においても、「研究者」と「活動家」では意見が食い違ったり、
同じ「日本を良くしたい」と思っているはずのオジサンたちが喧嘩したりするのはこのためだと思います。


でも実際には、違う分野の人達が話しあったり、協働したりしていろんな事が成り立っています。
そのとき何が起こっているかというと、新たなレイヤー、「共通言語」を獲得しているのです。

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共通言語というのは、「お金がほしい」とか単純なことでもいいと思います。
要は両者が「同じ景色を見れる」ように、土俵を整えることです。
目的意識を揃えること。

上の図では、絵を描くときの地層的(二次元的)なレイヤー概念は一旦忘れてもらって、
グラフを書くときの次元平面を想像して欲しいです。(y軸とかx軸とかz軸とか)
一緒に何かをつくる、ということは、平面どうしをつなげる新たな平面を生み出すことです。
立体的思考。



芝居で言う台本、という考え方もできますね。


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「相手のことを理解するとき」には必ずこのレイヤー選択が起こっているということを考えて、
共通言語をととのえることに邁進してみると、
ちょっとだけ世界が優しくなるかもしれません。


うん、可視化するとスッキリ。ふぅーー
なんかこう、あれよ。わし、少しずつ世界を優しくしていきたい。のです。
なーんてな!なーんてな!(脇汗)
だからね上の方にいるおじさん達、不毛な喧嘩はやめてくれーーー。

 
というわけで、国会でファシグラする、のがわたしの夢なんです。fromこないだ。



レイヤー(視点)をたくさん持っている方が得、という見方もあるかもしれませんね。
レイヤー間を自由に行き来したり、
あるレイヤーにあるレイヤーをかざして見たり、
自在に扱うことができれば、色んな立場の人と色んな面白いことができるんだろうなぁ。
 



とりあえず今日の所はここまで!!!!!
理解できなければ是非きいてください、お話しましょう。(語彙をすりあわせましょう)



久しぶりにすんげー真面目に書いたから毛穴が詰まったわ。
いやはやおっぱいおっぱい。
上澄み | -- trackback |  0 comment

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