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そういう時期だから

まことしやかに囁いてよアレを

You say why and I say I don't know. 


◯みみず
結構久々にみみずを見た。
信号待ちをしていて、ふと視線を落とすと、歩道と植え込みの境目に彼がいた。
自身の肩幅ほどの道をかきわけ、ぬるぬると土の中に潜っていくところだった。

瞬間、自分でも驚くほど心が動いたのでびっくりした。
そういう時、10センチほど、がこんと音を立ててズレる感じがある。



2017041913550001.jpg


◯剰余の宇宙

「なんでできないの?」ということばの暴力性を思う。

もしかして、「2倍できる人」から見て、「2分の1しかできない人」は、
「4倍できない」ように見えるのではないだろうか・・・???!?!とかいう恐ろしい推論
2倍できる人の視界は、広く、クリアなのだろう。
2分の1しかできない人の視界は狭く、雑多な情報に濁っている。
なかなか。地道に視野を広げてゆくしか道はない。


「なんでできないの?」という問に対して真っ当に答えるとすれば、
「それは◯◯だから。△△することによって◯◯を解決すればできるようになる」なのだが、
現場ではそういった合理的かつ長期的な解決法に至ることができず、
短絡的に怒りのエネルギーのみを受け取ってしまう。
すると、意味もなく「なぜかできない自分」に苛まれることになってしまう。不健康。


「Aができる」の対義語は、「Aができない」とは限らない。
「Bができる」と考えることもひとつの逃げ道だ。
(あ、これベン図要るやつや)

たとえばびっくりドンキーで、コロコロステーキ食べてる人に、
「おろしそバーグディッシュ美味しいのに、なんで食べないの?」と聞くのは愚問だろう。
「なんでって・・・今、コロコロステーキ食べてるから・・・。」としか言いようがない。
たまたまコロコロステーキを「選んでいる」から、たまたまおろしそバーグディッシュを「選んでいない」にすぎない。
別におろしそバーグディッシュを食べたくないわけではない。

Aが見えていない人には、Bが見えている。
それだけのこと。


たとえば界隈において、「こんな事も知らないの?」という扱いを受けることがある。
その場で無知が露呈した人は恥をかいてしまうが、
前提としての知識が共有できていないのはその人だけの責任ではない。
ある芸術家の属していたグループの名前は知らないが、その芸術家の作品に心から感動し人生を動かされた経験はあるかもしれない。
知識が鑑賞の邪魔をすることは大いにある。知識が全てではない。

Aを手に入れていない代わりに、その時間を使って別のものを手に入れている、そんなのは当たり前のことなのに、
その場においては「Aを手に入れていない」という絶対値で語られてしまうのであった。

もちろん、Aを手に入れることで新しい世界が見えるだろうし、
無知を反省して学ぶことは素晴らしいことだ。

ただ、「見えるべきもの」に視界を乗っ取られて、
自分の見たいもの、自分にしか見えなかったものが、
見えなくなってしまうこともあるのかもしれないなぁ。



知らんけど。


見えないもの、見えなくなったもの、
もとい、自分の認識できないものに関して語ることはできないので、以上。



ちなみに、「なんで、わかってくれないの?!」に関しても同じことが言えるんじゃなかろか。
このことばが使われれば使われるほど、どんどん相互理解が阻害され溝が深まっていく現象は結構おもしろい。


2017041913550000.jpg


実数は、無数の虚数の上に立ち、
「割りきれること」は、無数の「割りきれないこと」の上に立つ。


どうやら、社会で生きていくためには、
バシバシ実数で割りきっていかなければならないらしい。

割りきれないものは、切り捨て、切り上げ、「暗黙」の「便宜上」。
そうしないと、なんせ虚数は無数にあるのだから、
きりがないし、「効率が悪い」。



実像は、無数の虚像の上に立ち、
「言葉」は、無数の「言葉にできないこと」の上に立つ。


その、無数の虚像や、言葉に出来ないことや、虚数のこと、
「割り切れない」余りの、それらのことが、
わたしはいつも気になってしまうのだった・・・
うむ、効率悪き哉。



自分の認識していないことがあるということについて、把握している状態。
I see that I cannot make sense about it.
無知の知。





二項対立に対峙したときは、ちゅういぶかく、
その境目の、剰余の宇宙に目を凝らすべきだ。

そうしないと、正義に、悪に、踊らされるやで。


ざぼーん
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犬も歩けば棒に刺さる 

 
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて
硯に向かうも、
心にうつりゆくよしなしごとが
そこはかとなく、そこはかとなさすぎて・・・
呆然。
その日の出来事はその日のうちに
記録として完成させなければならないのではないかという強迫観念と、
ブログの文章は俳句のようにひとつの形として
完成されたものでなければならないのではないか?という過剰な自意識に囚われ、
いつまでたっても完成しない断片ばかりが溜まってゆくのであった。
しかし、よくよく考えてみたら、
なにかを「完成」させようと思う事自体ハナからおこがましい話だし、
その日の出来事をその日のうちに記録する必要は特になく(強迫観念の克服)、
また特に誰から期待されているわけでもない上に(自意識過剰の自覚)、
断片の記録が必ずしも時系列順でなくてもいいのかもしれない、と思いたち(パラダイムシフト)、
そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。


(現代語訳)
ちゃんとブログ書こうと思った。


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5/9

◯薔薇
京大キリスト教博士のあんちゃん、という概念とコーヒーをしばいていたら、
朝日新聞のおじさん、という概念からあんちゃんに連絡が入り、
神宮道の画廊に絵を見に行くことになった。
 
道中、ふたりがキリスト教のよくわからないむずかしい話をしていたが
よくわからないむずかしい話を聞くのは好きなので勝手にニヤニヤしていた。
教養ある人の話を聞くのは、知識のシャワーを浴びるような感じがして、たのしい。
 
たちのぼる雨のかほりに、慶ぶ鼻孔。
 
久々に静物画、
やはり、定期的に静物画を観なければならない。

年々静物画が好きになってる気がする。
年を取ると演歌が好きになるのと同じ理屈か・・・?(ちがうとおもう)


さまざまな作家の「薔薇」を集めた展覧会、
わたしには作家の名前も画壇の力学もとんとわからぬが、
そこに薔薇があるということだけはわかる。(阿呆面)
さまざまな薔薇。

美術鑑賞の方法はさまざまあると思うけれど、
一体「何が、」その絵を描かせたのか。
と、作品に問いかけてみるのは悪くない方法なのではないかと今のところ思っている。

すべて、同じ薔薇ではない。

その人は薔薇の、「何を、」描きたかったのか。
質感、
量感、
色、
光、影、
湿度、
空間、
あるいはそのすべて。


一体「何が、」その絵を描かせたのか。


存在そのもの。



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5/7

◯存在

その女の子は鳩を避けていた。
 
聞くと、鳥が苦手なのだと言った。

不可解なものを警戒するネコのように、じりじり・・・と鳩との間合いをはかる姿は、
なんていうか動物!!って感じがして、とてもよかった・・・。
グッときた・・・。
そこが動物園だったこともあり、余計に。

感覚的であることは、善い・・・。


いわく、檻をはさめば大丈夫、らしい。
また、写真や映像で鳥を見るのも平気だそうだ。
近くに、目の前に来られると、拒絶してしまう、近寄れない、らしい。

概念は許せるが、存在は許せない、という感じだろうか。



鳥を目の前にしてビビる気持ちはわかる。
だってあいつら意味わかんないし。美しすぎて。

鴨川とかに突然鳥がいるのめちゃくちゃびっくりするし、
なんなら突然近くにいるカラスもびっくりする。あれは畏怖に近い感情。
というか、「いいのかな・・・?」って思う。自分なんかが目撃してしまってもいいのだろうか?と。ドキドキして、思わず挨拶してしまう。
テレビや図鑑で見るのとは全く違う、目撃の質感。
道ばたで突然尊い。


話は飛ぶが、
筋肉を目の前にするとめちゃくちゃドキドキする。

女装した筋肉はよりいっそう、善い。
テレビや写真で筋肉を見ても特に何も思わないのだが、
目の前に筋肉があると8割増で興奮する。


博士は、2次元の幼女を画面で見る分には良いが
いざ目の前に3次元の幼女が現れると畏怖の対象になるそうだ
(これはちょっと違う意味だと思う)



目の前に来られた時の、畏怖や興奮。
存在の質感。リアリティ。立体感、奥行き。



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さいきん、ノーファインダーのかのうせいをかんじる・・・。

カメラ病の末期症状である可能性も高いが、疑いつついろいろ遊んでみようとおもう・・・
そういえば都写美でドアノー先輩の映画を見た。凄い良かった。次回書く。
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自意識と、dead letterと、「やあ詩人!」 

図らずも、詠んでしまった恥ずかしさ・・・

「あっ・・・、また詠んじゃったぁ///」
「オマエ・・・詠みすぎ///」

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自意識というものはそもそもが過剰なものであって、
その分泌を抑える術が「大人」なのかもしれない。
自意識、自意識、自意識…ぶつぶつ…。(←最近の私のようす)

ほんとは、自我なんてどこにもなくて、
ただただ自意識があるだけなのかもしれないな。
不確かな自我を確かめようといっしょうけんめいになる。
と、自意識が過剰になり、他意識が欠如する。なるほど。

逆に他意識を分泌することで自己が鮮明になってくることも大いにある。
だから人は界隈に属し、ルールを守るのかもしれない。
 
界隈に属さずとも、なんらかの「理」をまもることは、自己を鮮明にする。

・・・
(途方もないことばの泉を目の当たりにして、汲み上げようかどうしようか逡巡している)

これについてはもう少し考えてみよう(宿題)





 
dead letter,
届けるつもりのない手紙、
自分の中で勝手に完結して終わる手紙。

届いてないのに、
書くだけ書いて、何かを言ったような気になるのは、良くないね。本当に良くない。
自意識過剰。






価値を産み出さなくてはならない。


我々は子供であった。
のうのうと、いけしゃあしゃあと、
金銭と引き換えの価値を享受して生きてきただけにすぎない、無知で無恥な子供であった。

私の生存のために、途方もない額の金銭が支払われていたということに、
愚鈍な私は無自覚であっただけだ。
コンビニで金銭と引き換えに肉まんを手に入れるのとおなじように、
金銭と引き換えに教育を受け、食事を頂き、娯楽を貪り、衣服を纏って生きてきた。
すべては親とご先祖と周りの大人の力である。
ひとつも偉くないので、えばってはいけないのだ!


大人になるということは、
まぁ、様々な側面によって語られる出来事だけれども、
養われる側から、養う側へ変わるということでもある。


それは、
価値を享受する側から、価値を産み出す側へ変わるということで、
大学生はどうやらその狭間にいるらしい。



価値を産み出さなくてはならない。



つまらない自己顕示は犬も食わない。
届かない手紙は白やぎさんしか食べない。



届く手紙を、
丁寧に、
良いモノを・・・作りたい。



自意識というある種の邪念を捨てよう・・・。


そしてお金を大事にしよう・・・。
(本当に良いと思ったものにだけお金を払おう・・・)



当たり前のことに気づくのが本当に遅いタイプの人間だな。
もっと賢くならねばね。


らんばだー。





はうはう、大槻ケンヂ先輩の、自意識への洞察・・・。はうぅ。



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阿鼻ィ叫喚ロード 

冬至なので、かぼちゃを炊いてゆず湯に入った。
ゆず大根のお漬物もつくった。
 
なんとなく、粛々とした気分だったので。
 
冬至は、なんとなく大事な気がして、ささやかながら毎年お迎えしている。
というのも、わたしは夏至に生まれたから。
名前に夏が入っているのはその為だ、という説もまことしやかに囁かれているくらいだから、
この節目はとても大事な感じがする。
 
冬に至る・・・
 
至らないところばかりなので、少しでも至れるようにと、願掛けの気持ちで・・・
というのは後付けの小理屈だけど。
やっぱさー儀式って大事よねー

 



うまく歯車が噛み合わない日々が続いている。

わたしはどうやらあまり賢くないらしく、たくさんのことを処理しようとするとブレーカーが落ちてしまうことがある。
それから、過度の緊張が訪れるとヒューズが飛んでしまうらしい。
ひとつの線がぷつっと切れると、もう、頭がまっしろになってしまう。
全ての言葉は意味を失い、瓦解した状況のなかに自我の輪郭だけが浮遊する。

ちゃんとしなければ、と思えば思うほど、足を取られる。

それよりも先に、自分の身を守ろうとする卑しい気持ちがあるから、
いち早くブレーカーを落としてしまうのかもしれない。
恥ずかしいなぁ。
 
落ち着いて、集中できれば、きっと、なんのことはないのに。

なんだかテンパってしまっている。精彩に欠ける日々。
精彩、ニアリーイコール、自信、かな。(詠嘆) 
もう、2016年はそういう年なのだと開き直って、
ただただ冬が過ぎ去るのを待つような気持ちでいる。
 
盲信も、不信も、憑き物だから。
 
自分に取り憑いた不信は、絡まって、無理にほどこうとすると余計にもつれる。
すこしずつ、ひとつずつほどいていくしかない。

ゆずの香りは良い・・・。





友人とジュラシック・パークを観た。

阿鼻叫喚だった。(わたしが)
久々にフルスロットルで興奮したのでとてもつかれた・・・。
ジェフがとても良かった。

すごいな。もう、なんていうか、際限ない。スリルが。
照明や音響の扱い方がすごく秀逸で、狂気じみてると思った。
だいたい、映画なんて狂気じみてないと作れないだろうなとつくづく思う。

なにより大人たちがグダグダしているところの描写がもう絶妙で、素晴らしかった。
システムの根幹を揺るがすようなイレギュラーが発生しているにも関わらず、
すでに決まってる事(やりたい事)を押し通そうとすると、大体がうまくいかないんだろうなと思う。
大人の映画だなぁと思った。
 
テーマパークにおけるアトラクションの、「大丈夫なんかいなこれ」感の表現がリアルだった。

後半、ジェフがずっと乳首を見せつけてきたので、なんとか精神の安定を保つことができた。



良い映画は、ひとの「油断」をうまく描き出しているものが多いなぁ。
すごく難しいことだと思う。ものすごい厳密さが必要。



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うまくいかないことは多いけど、
なんとゆーか、
人のせいにすることだけは、しないように、気をつけようと思います・・・。ふうぅー。
粛々。



あと一週間・・・まいにちを祈る・・・。





 
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宗教つまみぐい日記(食レポ) 


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ひとは何を信じるのか、とゆーことについて。
 
K からはじまる3つの宗教施設にいってきました。
特定の宗教を批判するものではありません。(念のため)
 
 

 
京大の知識人のサロン?的なやつに何度か行っているのだけど、
なんか全体的に独特の息苦しさというか、
ある場所で感じたのは風通しの悪さというか。
 
登壇者(権威ある人)の発言に対して、
自分の疑問だったり提案だったりそういう発言があまり響かない感じ。
そこまで的はずれなことをいっているわけではないと思っていて、(自分では・・・ね)
なぜだろう、挙動のせいか、話し方のせいか、ポクポクポク、ちーん、あ、棒に当たった。
 
説得力がないからかぁ。
 
「わたし、こう思うんですけど!」っていうのをいくら重ねた所で、
ただの感想とゆーか、その場しのぎの自己顕示にしかならない。
 
ひとが何を信頼するのかというと、根拠。これに尽きる。
根拠、圧倒的な正しさ。
それととても近いところに、権威、がある。
権威、圧倒的な声の大きさ。
 
とくに京大で研究とかしてる人たちなんかはなおさら、根拠と権威を重視してる感じがする。
たぶん、根拠のないことに時間を使っているほど暇じゃないんじゃないかなぁ。
 
 
木を彫る上でも、説得力のある形、を意識してみる。
根拠。量感、歴史・・・
 
 

 
 
 
日曜礼拝にいった。

合唱、唱和、共鳴。
空気が振動して鼓膜がふるえる。からだがふるえる。
大きなものの一部になる感覚は、享楽的だった。
一体感、存在の仮託。
 
日々起こった「良いこと」を報告するとともに、
神さまと、神さまにいっしょに祈ったひとたちに感謝していて、良いなあ、と思った。
「良かったことを話す」機会って、日常会話で意外と少ない。
下手すると自慢になってしまって、鼻につくし。こころが豊かになるなあ。
 
あと、とても、正しいことを言っていた。
くらくらした。
正しいことは、正しすぎてまぶしい。
目が眩む。
 くらくら。
 
コミュニティ、共生、個人的な救い主
生きるよろこび。
なまあたたかい場所だった。
 
言うまでもなく、聖書は圧倒的な「根拠」だなぁ。
 
 
 

 
 
ひょっこり二時間ほど時間が空いたので、
一等地にとってもご趣味のよろしい宮殿を構えていらっしゃる某科学施設にお邪魔してみた。
 
そしたらすっげーカジュアルに入会してしまった。笑
(チェックボックスにNIKEのマーク書くだけ、あと若干の個人情報)
  
とても穏やかでなまあたたかい人達でした。
満ち足りた顔してらっしゃって。
若い人も結構いてて、アットホームな感じが意外でした。
 
3階の礼拝室で入会して、
帰ろうと1階に降りたら皆さんから口々に「おめでとうございます!!」と言われ。
いやぁ~はっはっは。(目そらし)
  
支部長さんともお話しました。
(信者のひとに「支部長と話すと人生変わるよ!」って言われた)
私(の守護霊)をひと目見るなり、わりと私の核心部分に触れてきたからびっくりしたなー。
まぁ、ちょっと勉強すれば誰でもできることなんだと思うんですが。
 
んで、「私、神道が好きなんですけど、大丈夫ですか?」って聞いたんですが、
「うん、大丈夫!神道も入ってるよ!」と支部長。
「え?」
「全部入ってるから!」
と言って、本棚の前に案内される。
 
見れば、ずらっと並んだ300冊余りの本の著者は「全部」O川R法先生。
「伊邪那美命の霊言」「イエス・キリストの霊言」「マホメットの霊言」どっひぇー!!!
要は、O川さんのフィルターを通して古今東西老若男女ありとあらゆる人の哲学を説いているのであります。
フロイト先生とかマルクス先生とかがインタビュー形式で喋ってて、普通のおっさんで、だいぶ面白かった。笑
 
まぁ、あれですよ・・・
 
僭越ながら憚らずツッコませていただくと・・・




全部二次情報やないかーい!!!



(やないかーい!!!)


(いかーい!!!)

(ーい!!!)



っていう・・・(照)
 

いやね、言ってることは大概間違っちゃいないんですよね。
O川さんはたぶん相当けっこうかなり頭の良い人です。
霊言以外の本も、ビジネス哲学とか、経営哲学によるものが多く、
普通に為になる部分もありそう。
ま、二次情報なんですけどね~(下手したら3次情報かも)
 

それってこの話に限らなくて、
自己啓発とか、名言集とか、岡本太郎の本とか、
まぁ、めちゃくちゃ正しいこと言ってんだけど、
それで得られる人生哲学って、けっきょくは全部、二次情報なんよな。
 
自分の経験(一次情報)と照らしあわせながら読まないと
ただの鵜やからなー。



んでまぁぱっと見はそんなに危なくなさそうな感じだったんですが、
明らか変なところもたくさんあって、常識の範囲内ならアレ?って思うようなことなんですが、
それ以上の「説得力」に圧倒されて、くらくら、違和感の位置が盲点になっていく。
「ちょっとの違和感」がだんだん「大きな声」とか「場の空気」によってかき消されていくんだろうなぁ・・・。
それは、こういう場所に限らないことで、実は京大のサロンでも感じたことでした。


でも面白かったので、また遊びに行こうと思ってます。
基本的には「勉強する」っていうスタンスの宗教なので、
(談話室ではみんながO川さんのハードカバー本を片手に持っている。)
勉強さしてもらいに行こうかと。

一銭も出したくないですけど。笑








(後日談)

嵐山モンキーパークいわたやまに行った。
超絶最高だった。

なんというか、風通しが良かった。

人生に迷ったらみんなここに来ればいいと思った。笑


権威とか根拠とか、関係なく、サルはただ生きてるだけだ。
寝て食ってぼーっとして毛づくろいしてるだけだ(マジで)


閉塞感のある場所は苦手だなぁと思う。わたしはね。



ま、いいと思うんですよ、幸せなら。
自分にとっての正しさ、を見つけることができて、それに没頭できることをたぶん幸せと呼ぶ。


 
わたしもせいぜい幸せに生きよう~~っと。

一次情報による、自分なりの、根拠を、
説得力を、培って、りっぱな大人になりたいものですな。
お?まとまったか?まとまったのか??!??!?

おあとがよろしいようで~。
ほんじゃまララバイ。でゅわ~。
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