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そういう時期だから

まことしやかに囁いてよアレを

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夏に至る病 

ファイル_000 (1)



最近つつじが好きになってきた。
幼少期よりこの間までは、あのべったりとした色彩といい、どこにでもいる凡庸さといい、
誤解を恐れずに超平たく言うと「バカっぽい感じ」がしてあんまり好きじゃなかった。








他人というのはえてして無意思に映るものだ。

バイトであちこちに派遣されると、
たまにすっごい「無意思そうな大学生」みたいなのを目撃してドキドキすることがある。
だ、大丈夫だろうか!!!!!!!!!!!みたいな・・・
いや、別に心配しているとかではないんだけど、い、いいのかな・・・??みたいな・・・
だけど、じっくり話をきいていると、
彼らには彼らの考えがあって、彼らの感性がある。
当たり前だけど・・・忘れがち。

凡て、非凡である。


小学生の頃、遠足や校外学習などで、他校の小学生の集団を見た時。
彼らはやけに不気味な存在に映ったものだった。

なぜだか不可解で攻撃的で無意思に見えた、彼らの中にも、
「しっかりもの」とか「いじられキャラ」とか「スポーツ得意な子」とか、
わたしたちのがっこうにあるそれと相似形の「役割」がそれぞれにあり、
「彼らの社会」が、わたしのあずかり知らないところで運営されているのだと思うと、
子供心に妙な気持ちになったことを思い出す。


「大衆はバカ」という言説は
頭のかしこい方々がもっともらしくまことしやかに、声高に囁いているが、
果たして大衆とは・・・・・・・・・・・・・?????????







いや、つつじ(躑躅)の語源やばすぎるやろ。
http://gogen-allguide.com/tu/tsutsuji.html



白いつつじの、雨に濡れて悦ぶ姿がよき。

なんともいえないまだらな花の付き方もよいね。




ファイル_002_R



なんだろう・・・最近、
世の中の有象無象がえらく緩慢にみえる・・・。

これはおそらく、世の「ストーリーライン」のようなものから自分自身が「脱線」してそのまま浮遊しているからなのかもしれない。

たとえば芸大でおべんきょうしていた頃は、常に「制作をするのが正義だ」というストーリーラインがあった。
また、「普通じゃない方が良しとされる」というストーリーラインもあった。
しかしいざ離れてみると、芸大で良しとされていたそういう価値基準、及び「正義」は、
ひどく遠い世界の出来事に思える。

芸大の内部というのは、いわば「個性的」がインフレを起こしているような状態である。
中にいた時から、「これは界隈の出来事なのだ」と感じていたが、離れてみるとやはりそれは如実であった。
(もちろんそれは「全体の空気」の話であって、個人個人の性質とは関係ない)

他の界隈や広義の界隈(若者たち)でもそれは同じで、
「東京に行くのは偉い」「留学するのは偉い」「メディアに出るのは偉い」
とか、なんかそういうストーリーラインがなんとなく空気として存在している。

いや、別にストーリーライン自体が悪いとかではないんだけど!(重要)

批判すべきは、ストーリーラインをなぞること自体が目的となってしまう現象であり、
界隈における正義が達成されなかった時に漂う暗黙の断罪やそれによって起こる劣等感などである。





緩慢、というのが意味としてあってるのか微妙なところだけど、
今のところ緩慢という語彙がしっくり来る・・・

おそらく、暗黙のストーリーラインに関して、
10だけ聞けば分かる話を向こうが1から10まで全部話してくれる、というのと同じ類の
緩慢さを感じているのかもしれない。

「芸大って、個性的な人が多そうだね!」
と無邪気に言われると、わたしは目と耳と鼻から血が出そうになる。
ああ・・・1から10まですべて話さないといけないのだろうか・・・・・・・・?
その先の圧縮された時間、及びこれまでの圧縮された考えと瞬時に同期し、ゆっくりと時が流れる・・・。
(そして私は貝のように沈黙する・・・・・・・。)







文学研究科博士課程の友人が、
「博士論文以下の文章はもう読みたくない」というようなことを常々言っていて、
最初は「はぇー・・・」と思ったけれど、
最近ちょっとなるほどなぁと思うようになってきた。
 
その分野を選び取り、「プロとして」考えている人たちにとって、
さんざん考え尽くしてきたようなことを、ぽっと出の浅い言葉で語られても、
沈黙以外の回答がなくなってしまうのだ。

議論の俎上。

アカデミズムの俎上において、個人的な印象を一般化することには注意が必要である。
ただ単に所感や印象を並べるだけなら、「せやな」で終わってしまう。

それが抽象的なことであれ具体的なことであれ、
なにかを証明しようと思ったら、緻密に緻密にその中身を刻んでいく必要がある。
そういうプロセスを踏んできた、また日常的に踏み続けている人たちにとって、
わたしの挙動は緩慢に見えるのかもしれない。


http://mukujarakeeee.blog.fc2.com/blog-entry-17.html
あの時に感じた風通しの悪さのようなものの正体が、ちょっと腑に落ちた気がする。
きっと、所感の脆弱さという問題にはとっくの昔にぶち当たったような人たちだったのだろう。





さて、わたしのやりたいことというのは「証明」なのだろうか・・・



考えるのはたのしい。
所感は無数にある。やりたいことも。

もっと明朗に紡ぎたい。

明瞭で朗らかでドライなことばを・・・


今はまだ、不鮮明で輪郭があやふや、
浅瀬でぴちゃぴちゃと飛沫を飛ばしているような。



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A.京都府立図書館の中庭




ブログを毎日書こうと思ったけど綺麗に3日で終わっててズコー
時間がかかるので「ブログ書いてる暇があったら・・・」という問題が(深刻)
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乾燥 | -- trackback |  0 comment

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冷や汗ぶっかけとりみだし茶漬け 

A「あのぅ・・・私ってADHDなんですかねぇ・・・?」
B「あなたは寂しいだけだと思います。」
A「」
B「私もです。」

アーメン。

―――――――――

↑1月27日の未送信メール

思考の断片を未送信メールに記録するようにしているのだけど、
たまに見返した時によくわからないものが出てくると、
鳥のフンひっかけられたような気持ちになるな・・・。



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◯閾値

友人とのニューヨーク旅行の朝、
グーグル翻訳に英語で話しかけて正しく認識されればOK、という遊びをしていて、
私は「word is world」と言う練習をひたすらしていた。

RとLの違いを口の中で調整するの、すごくたのしい。
あと最近のマイブームは「v」。
発音に正解があって、それをきっちり守らなければ通じない、というのは結構面白い。
KとC、FとH、BとVの違い。たのしい。
アルファベットたのしい。

バイト先のお客さんが8割外国人の方なので必死で英語を話しているが、
たとえば「coffee or tea?」という単純なことばでもいろんな要素が含まれている。
単語に「R」が入ると口内空間がグッと後ろの方に拡張する。
対して「tea」はすごく前の方にいる。「Please」なんかも結構浅いところで発音している。

ミュージカルの稽古で、いつも声楽科の方に歌唱指導をしてもらっていたのだが、
歌う時、とくに音を伸ばす時、母音によって口内空間の開き方が違って、
「あ」から「お」にいくにつれて奥の方に広がっていく、と教えてくださったのが面白くて、
頭にこびりついている。


音素の質感、音韻の閾値。


わーん、英語おもしろいようう。




◯寝坊

一ヶ月に2度ほど、本当にアホみたいな遅刻(遅刻 like an アホ) をする。
アホみたいな遅刻は、アホみたいな夜更かし(夜更かし like an アホ) に基づくのだが・・・

というのも、一ヶ月に2度ほど、ギンギンに冴えて眠れない日があって、
そうなると次の日にどんなに大事な用があったとしても、
無益な夜更かしに興じることを良しとしてしまう。


ま、要は、衝動に身を任せてしまうという話なのだけど・・・


重力に負ける、というよりも、重力に身を委ねて、
自分をわざわざ破滅に導いてしまうことがしばしばある。
その瞬間というのは、すべての理屈が無に還り、
考える部分の脳みそがどろんどろんにとろけている状態。

それによって重大なポカをしてしまうと、当然人からの信頼株は暴落する。(あちゃー)
 
優しい人に、「損するよ」とか、「勿体ないよ」と言っていただくと、
 
いや~・・・

本 当 に そ う 思 い ま す 。

と、思います、思う・・・のだけど・・・
毎回、その反省を咀嚼・嚥下はできても、
腑に落ちないまま胃のあたりで吸収されてしまうのであった・・・。
 




◯損得

そもそも、「損得」という判断基準にあまり共感できていない節がある。

「損」という感情は、自分が提示した価値に対して払われる対価が
「釣り合わない」と感じることだと思うが、
大概は持ちつ持たれつ、それ相応の価値があるだけだと感じる。

というか、価値の交換が「成り立っている」時点で絶対に「つりあい」は取れていて、
あとは傾き加減と感情(印象)の問題なんじゃないだろうか・・・
 
なにか買い物で失敗したとしても、自分が浅はかだったがゆえの相応の対価だと思うし、
つまらない映画を見ればつまらないことに面白さを見出すし、迷子になるのは良いことだし、
待ち合わせに相手が遅刻してきてもあまり何も思わない(・・・。)
その時々でなにかおもしろいものを見つけて納得(正当化)してしまう。

あとは「勉強になりました」という魔法の呪文で、
損得のものさしをどろどろに溶かすこともできる。


損得を考える思考回路が発達していないので、
税とか保険とかっていう制度が本当に苦手で困っている。
「後先考える」というのが基本的に難しい。

あと、損得を支点として「人の気持ちを考える」というのも難しい。
自分自身の損得ハードルが低いので、
「自分の行動が人に損をさせる」という思考になかなか至れない。


そういった理由で、衝動ストッパーがうまく働かないことが多いのだと思います・・・。



これは完全に人間的欠陥なので、
「やっべぇなぁ、どうしたもんかなぁ」と頭を抱えている次第です/(^o^)\


「俺のこと殴っていいから君のこと殴らせてよ!」って言ってるようなもんだし、
かたや「ごめんなさい!ごめんなさい!」と言いながら人を殴り続けてるようなものだしなぁ・・・



I see, I understand, but I can't make sense.
腑に落ちたい・・・

I want 誠意・・・






「真の悪は、”正当化”にこそ潜んでいる。」
               ~Chika Tsujison(1994~2095)


べちゃべちゃと汚い生き方はせぬように心がけたいものです。最後に勝つのは美意識・・・。



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京都府立図書館の、窓際の一等席を確保できるかどうかが、
QOL(生命の質)とふかくかかわっている♨



(次書く)
・学歴と選民について

摩擦 | -- trackback |  0 comment

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写真よさようなら、来るべき言葉のために 

◯行き止まり
私の住居は京都市の右上のほうにあり、京都は道が単純なので、
帰り道は ↑ → のコマンドを繰り返し入力することで大体たどり着くことができる。

ゆえに、自転車で毎回ちがう道を通って帰るのだが、
きょうは住宅地で行き止まりに行き当たったのでドキドキした。

行き止まりに行き当たると、大変あやしい気持ちになるのは私だけだろうか・・・?

なにかこう、来てはいけない知らない世界に来てしまったような気持ちになる。
些か不安になって大きめの道に出ると、出町柳よりも北西に来ていた。
 \賀茂川     高野川/
   \       /  ★家
  ●  \    /  
  ↑   出町柳
       |
       |鴨川
出町柳でY字に分かれた鴨川は「賀茂川」「高野川」と名前を変え、エリアを3つに分断する。
賀茂川の西エリアには来たことがなかったので、まさしく知らない世界だった。

まだまだ、京都のなかでも自分にとって実体のない、輪郭のあやふやな土地は多い。
おもしろい景色や変な風景はごろごろ転がっている。
住んでいても、旅行者の気持ちを忘れないことが、みずみずしく暮らすコツ哉・・・。


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「蓼倉橋」がなかなか素敵な橋だった。
渡りながら振り返った時、ニューヨークから見たハドソン川の景色、
その向こうに見えた町の姿を思い出した。

そういえば同じ時間帯、同じように曇りで、相似形の姿だった。
同期・・・synchronize




◯KYOTO GRAPHIE
あの赤いのぼりを街中で見ると、今年もこの季節が来た!と嬉しくなる。

01 虎屋 京都ギャラリー:江戸時代の日本
04 ギャラリー素形:ジャダ・リパ
09 京都文化博物館別館2階:ルネ・グローブリ
10 誉田屋源兵衛 竹院の間:ロバート・メイプルソープ
06 元・新風館:吉田亮人

今日は、無料のところばかりを廻った。

写真の長所は、「すべて写る」ことであり、
写真の短所は、「すべて写ってしまう」ことなんじゃないかと、ぼんやり思った。

写すものを選ぶ。それによって、その写真家の性質が決定される。
膨大な情報のうちから、どの部分を切り取ってくるのか。どの部分を削り落とすのか。
単純なことのようで、これがどちゃくそ難しい。
結局、それがシャッタースピード、絞り、構図、ピント、タイミング、その全てに関わってくる。


また、「撮影者が写ってしまう」こともある。
物理的に写り込むということではなく、心理的な現象として。

良い悪いは別にして、
「写真に、撮影者の存在が色濃く感じられるどうか」という問題は、
写真を鑑賞する上で一つの焦点として論じられるかと思う。


10:温度60℃、湿度50%
ロバート・メイプルソープの写真には、ずっしりとした自己主張があった。
意図的なフレームワークに、撮影者の「俺を見てくれ!」という視線をびんびん感じて、
なんというか、腹に重たく溜まる感じがあった。

06:温度36℃、湿度90%
展示室から出て、思わず友人に「びしょびしょになったね・・・」とこぼした。
めちゃくちゃウェット。被写体と撮影者の関係。画面の中に流れる時間、空間。
演出過多・説明過多に感じる部分もあったが、そこは好みの問題かもしれない。
入り口の2枚の写真では思わず涙ぐんでしまった。
「写る」ことの強さと、「写ってしまう」ことの弱さを同時に感じた。

09:温度15℃、湿度20%
06とは対照的で、非常に距離が遠く、客観的、ドライな写真だった。
顔を写さない、というのは大きい。
また、10と同様に肉体の曲線を写しているのだが、まったく質感が違った。
前者が影によってかたちを刻んでいるのに対し、こちらは光によって線を浮かべている感じがあった。


ひとまず簡潔に・・・


撮影者・被写体・鑑賞者、それぞれの距離感。

(高校時代、写真部の顧問の先生が、
「撮って良し、撮られて良し、それ見て良し、の三方良し」を目指せ、
と仰っていたのを今思い出した)



5/1

◯都写美
念願の都写美!

山崎博の「計画と偶然」展をやっていた。
前述の「撮影者が写り込む」状態に関して言うと、極力それを削ぎ落とそうとしているように見えた。
いやまあ撮ってる時点で絶対に写り込んでるんだけど、
姿勢として、ドライであろうとすること、現象を現象として記述することへの情熱。

桜の印象を写すシリーズでの、
「桜を物語から切り離したい」という文言に共感した。



ロベール・ドアノー先輩のドキュメンタリー映画が上映されていたので、喜び勇んで拝見した。
ドアノーさんは私が「好きな作家」として名前を挙げられる数少ない写真家で、
路上スナップもいいし、何より有名人を撮ったポートレートがとっても良い。
「人が好き」だということが、画面からいっぱい伝わってくる。

ドキュメンタリー映画はあまり好きではないのだけど、
先輩の写真がふんだんに使われつつ映像とのバランスも良く、
ひょうきんなBGMも相まって楽しく観られた。

「ファインダーの中に小さな劇場をつくり、そこに登場人物が現れるのを辛抱づよく待つ」。
彼が「イメージの釣り人」と呼ばれたゆえん。
高校時分、スナップ写真ばかり撮ってきた身としては、僭越ながら「まさに」と思った。


あと、
「写真家に必要なのは、好奇心、不服従、忍耐。」という言葉も耳に残った。

好奇心、不服従。しっくり来る。
それさえあれば絶対に大丈夫だ。



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自我を主張することが芸術、というふうに思っている人は多いと思うが、私はそうではないと思う。
というよりも、芸大で4年かけて、そうではないと思うようになった。


自我は、主張するものではなく
自意識を滅却することによって「自ずと」浮かび上がらせるものなのかもしれない。


「自分を表現する」という言葉がうかつに使われる場面があるが、それは間違いで、
私たちには「自分の認識しているものを表現する」ことしかできない。

「認識しているもの」を「表現」しようとしたときに、
「自分」という存在は時として邪魔な、障害になる。
「思い込み」が、純粋な認識を阻害するのと同じ理由で。



純粋な認識、不純な認識。

絶対的な自我、相対的な自意識。



何が良い、悪いというのではない。
何を良しとするかは、自分で決めることが出来る。

虎にならぬよう。




さて・・・ぶつぶつこねてる暇があったら絵を描かなければ・・・・・・!
お仕事お仕事っ・・・。いやー、ほんと、まじでまじで・・・
書いてる暇があったら描かなきゃ、まじでまじで(手汗)




トリッパー 投稿者 y6nojo
沸騰 | -- trackback |  0 comment

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You say why and I say I don't know. 


◯みみず
結構久々にみみずを見た。
信号待ちをしていて、ふと視線を落とすと、歩道と植え込みの境目に彼がいた。
自身の肩幅ほどの道をかきわけ、ぬるぬると土の中に潜っていくところだった。

瞬間、自分でも驚くほど心が動いたのでびっくりした。
そういう時、10センチほど、がこんと音を立ててズレる感じがある。



2017041913550001.jpg


◯剰余の宇宙

「なんでできないの?」ということばの暴力性を思う。

もしかして、「2倍できる人」から見て、「2分の1しかできない人」は、
「4倍できない」ように見えるのではないだろうか・・・???!?!とかいう恐ろしい推論
2倍できる人の視界は、広く、クリアなのだろう。
2分の1しかできない人の視界は狭く、雑多な情報に濁っている。
なかなか。地道に視野を広げてゆくしか道はない。


「なんでできないの?」という問に対して真っ当に答えるとすれば、
「それは◯◯だから。△△することによって◯◯を解決すればできるようになる」なのだが、
現場ではそういった合理的かつ長期的な解決法に至ることができず、
短絡的に怒りのエネルギーのみを受け取ってしまう。
すると、意味もなく「なぜかできない自分」に苛まれることになってしまう。不健康。


「Aができる」の対義語は、「Aができない」とは限らない。
「Bができる」と考えることもひとつの逃げ道だ。
(あ、これベン図要るやつや)

たとえばびっくりドンキーで、コロコロステーキ食べてる人に、
「おろしそバーグディッシュ美味しいのに、なんで食べないの?」と聞くのは愚問だろう。
「なんでって・・・今、コロコロステーキ食べてるから・・・。」としか言いようがない。
たまたまコロコロステーキを「選んでいる」から、たまたまおろしそバーグディッシュを「選んでいない」にすぎない。
別におろしそバーグディッシュを食べたくないわけではない。

Aが見えていない人には、Bが見えている。
それだけのこと。


たとえば界隈において、「こんな事も知らないの?」という扱いを受けることがある。
その場で無知が露呈した人は恥をかいてしまうが、
前提としての知識が共有できていないのはその人だけの責任ではない。
ある芸術家の属していたグループの名前は知らないが、その芸術家の作品に心から感動し人生を動かされた経験はあるかもしれない。
知識が鑑賞の邪魔をすることは大いにある。知識が全てではない。

Aを手に入れていない代わりに、その時間を使って別のものを手に入れている、そんなのは当たり前のことなのに、
その場においては「Aを手に入れていない」という絶対値で語られてしまうのであった。

もちろん、Aを手に入れることで新しい世界が見えるだろうし、
無知を反省して学ぶことは素晴らしいことだ。

ただ、「見えるべきもの」に視界を乗っ取られて、
自分の見たいもの、自分にしか見えなかったものが、
見えなくなってしまうこともあるのかもしれないなぁ。



知らんけど。


見えないもの、見えなくなったもの、
もとい、自分の認識できないものに関して語ることはできないので、以上。



ちなみに、「なんで、わかってくれないの?!」に関しても同じことが言えるんじゃなかろか。
このことばが使われれば使われるほど、どんどん相互理解が阻害され溝が深まっていく現象は結構おもしろい。


2017041913550000.jpg


実数は、無数の虚数の上に立ち、
「割りきれること」は、無数の「割りきれないこと」の上に立つ。


どうやら、社会で生きていくためには、
バシバシ実数で割りきっていかなければならないらしい。

割りきれないものは、切り捨て、切り上げ、「暗黙」の「便宜上」。
そうしないと、なんせ虚数は無数にあるのだから、
きりがないし、「効率が悪い」。



実像は、無数の虚像の上に立ち、
「言葉」は、無数の「言葉にできないこと」の上に立つ。


その、無数の虚像や、言葉に出来ないことや、虚数のこと、
「割り切れない」余りの、それらのことが、
わたしはいつも気になってしまうのだった・・・
うむ、効率悪き哉。



自分の認識していないことがあるということについて、把握している状態。
I see that I cannot make sense about it.
無知の知。





二項対立に対峙したときは、ちゅういぶかく、
その境目の、剰余の宇宙に目を凝らすべきだ。

そうしないと、正義に、悪に、踊らされるやで。


ざぼーん
阿呆面 | -- trackback |  0 comment

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犬も歩けば棒に刺さる 

 
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて
硯に向かうも、
心にうつりゆくよしなしごとが
そこはかとなく、そこはかとなさすぎて・・・
呆然。
その日の出来事はその日のうちに
記録として完成させなければならないのではないかという強迫観念と、
ブログの文章は俳句のようにひとつの形として
完成されたものでなければならないのではないか?という過剰な自意識に囚われ、
いつまでたっても完成しない断片ばかりが溜まってゆくのであった。
しかし、よくよく考えてみたら、
なにかを「完成」させようと思う事自体ハナからおこがましい話だし、
その日の出来事をその日のうちに記録する必要は特になく(強迫観念の克服)、
また特に誰から期待されているわけでもない上に(自意識過剰の自覚)、
断片の記録が必ずしも時系列順でなくてもいいのかもしれない、と思いたち(パラダイムシフト)、
そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。


(現代語訳)
ちゃんとブログ書こうと思った。


IMG_1970_R.jpg


5/9

◯薔薇
京大キリスト教博士のあんちゃん、という概念とコーヒーをしばいていたら、
朝日新聞のおじさん、という概念からあんちゃんに連絡が入り、
神宮道の画廊に絵を見に行くことになった。
 
道中、ふたりがキリスト教のよくわからないむずかしい話をしていたが
よくわからないむずかしい話を聞くのは好きなので勝手にニヤニヤしていた。
教養ある人の話を聞くのは、知識のシャワーを浴びるような感じがして、たのしい。
 
たちのぼる雨のかほりに、慶ぶ鼻孔。
 
久々に静物画、
やはり、定期的に静物画を観なければならない。

年々静物画が好きになってる気がする。
年を取ると演歌が好きになるのと同じ理屈か・・・?(ちがうとおもう)


さまざまな作家の「薔薇」を集めた展覧会、
わたしには作家の名前も画壇の力学もとんとわからぬが、
そこに薔薇があるということだけはわかる。(阿呆面)
さまざまな薔薇。

美術鑑賞の方法はさまざまあると思うけれど、
一体「何が、」その絵を描かせたのか。
と、作品に問いかけてみるのは悪くない方法なのではないかと今のところ思っている。

すべて、同じ薔薇ではない。

その人は薔薇の、「何を、」描きたかったのか。
質感、
量感、
色、
光、影、
湿度、
空間、
あるいはそのすべて。


一体「何が、」その絵を描かせたのか。


存在そのもの。



IMG_1986_R.jpg


5/7

◯存在

その女の子は鳩を避けていた。
 
聞くと、鳥が苦手なのだと言った。

不可解なものを警戒するネコのように、じりじり・・・と鳩との間合いをはかる姿は、
なんていうか動物!!って感じがして、とてもよかった・・・。
グッときた・・・。
そこが動物園だったこともあり、余計に。

感覚的であることは、善い・・・。


いわく、檻をはさめば大丈夫、らしい。
また、写真や映像で鳥を見るのも平気だそうだ。
近くに、目の前に来られると、拒絶してしまう、近寄れない、らしい。

概念は許せるが、存在は許せない、という感じだろうか。



鳥を目の前にしてビビる気持ちはわかる。
だってあいつら意味わかんないし。美しすぎて。

鴨川とかに突然鳥がいるのめちゃくちゃびっくりするし、
なんなら突然近くにいるカラスもびっくりする。あれは畏怖に近い感情。
というか、「いいのかな・・・?」って思う。自分なんかが目撃してしまってもいいのだろうか?と。ドキドキして、思わず挨拶してしまう。
テレビや図鑑で見るのとは全く違う、目撃の質感。
道ばたで突然尊い。


話は飛ぶが、
筋肉を目の前にするとめちゃくちゃドキドキする。

女装した筋肉はよりいっそう、善い。
テレビや写真で筋肉を見ても特に何も思わないのだが、
目の前に筋肉があると8割増で興奮する。


博士は、2次元の幼女を画面で見る分には良いが
いざ目の前に3次元の幼女が現れると畏怖の対象になるそうだ
(これはちょっと違う意味だと思う)



目の前に来られた時の、畏怖や興奮。
存在の質感。リアリティ。立体感、奥行き。



IMG_1973_R.jpg


さいきん、ノーファインダーのかのうせいをかんじる・・・。

カメラ病の末期症状である可能性も高いが、疑いつついろいろ遊んでみようとおもう・・・
そういえば都写美でドアノー先輩の映画を見た。凄い良かった。次回書く。
阿呆面 | -- trackback |  0 comment

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